おもろいんやで歴史漫談:悲劇の首長 阿弖流為


悲劇の首長 阿弖流為(あてるい)




考古学研究家 植田正幸




 京阪牧野駅の近くにある、大阪城の艮(東北)の鬼門鎮護の社・一宮片埜神社、その北側の牧野公園に慰霊碑「伝・阿弖流為・母禮之塚」があります。ここは私が小学生の頃からの縄張りで、何も知らず友だちと、「くびづか!」とか言いながら、よく上に登って遊んでいました。至近の宇山東公園にも碑があり、案内板に「蝦夷の首長阿弖流為らのゆかりについて」と記され、こちらは胴塚と呼ばれています。
 阿弖流為は今から約1200年前、現在の岩手県で生活していた蝦夷の首長で、蝦夷を統治下に入れようとする朝廷との戦いに勇敢に立ち向かった人物です。阿弖流為は副将の母禮と共に征夷大将軍だった坂上田村麻呂に降伏し、桓武天皇のもとに赴きます。阿弖流為と田村麻呂の間には信頼関係があり、身の安全を保障した上で、阿弖流為は捕虜ではなく和平交渉のために自ら遠路平安京まで来たのですが、田村麻呂の助命嘆願かなわず、処刑されてしまいます。
 当時の政府が蝦夷の祟りを恐れ、平安京に穢れの血が滴るのを避けるために牧野阪で斬首し、その遺体を切断して埋葬したのが首塚・胴塚伝承譚です。この地が選ばれたのは付近に京都西寺所用の瓦窯があり、官僚の直接支配が及ぶ場所だったのでしょう。
 侵略軍に隷属を拒み、枚方・牧野に祀られた蝦夷の英雄の悲哀は、翻って現代のウクライナのことを思わずにはいられません。







考古学研究家 植田正幸
埋蔵文化財発掘調査担当を経て、考古学・歴史講座を行う。 考古学・古代史探訪サークル顧問・専任講師 「生涯青春塾」北河内歴史講座を担